「何を教えるか」を考えるーその1

先日のブログでは授業に入る前の下準備的な側面から、ルールを主にお伝えしました。詳しい内容は下のリンクから記事が見れますので、一応張り付けておきます。

satoke1996.hatenablog.com

 

さて、今回からは授業の様子や内容を詳しく書いていこうと思います。

序盤は担当が変わってそわそわしていたクラスが、授業の終盤になると何かに吸い込まれるような真剣な眼差しをこちらに向けていました。そこにもしっかりとした理論があります。僕なりの教育哲学と言ってもいいでしょう。今回はそれを紹介したいと思います。

 

国語という科目に限らず全ての講師に共通していることがあります。そう願いたいです。それは、生徒の成績を上げること。第一志望校に合格させてあげること。この2つだと思います。志が高いことは大変すばらしいことで、その気持ちを持ち続けてほしいことには変わりはありません。しかし、多くの講師はその目標だけにフォーカスしている節があるのではないでしょうか。個別対応を例にとって考えてみましょう。

 

入試は年に1度しかありません。しかし、成績や学力を測るものに関しては、1年で数々の模擬試験があり、その一つ一つで得点と偏差値が提示されます。そして多くの講師はその数字だけを見て生徒と面談をしたり、補習をしたりします。確かに個別に対応することで講師側の熱意は伝わるかもしれません。しかし、果たしてその熱意は持続するでしょうか。物事の本質を見抜き、欠点を改善することができるでしょうか。いや、効果が出るのは短期間で、だいたい週間後にはまた忘れていることが多いと思います。冷静に考えれば分かることですが、同じ問題は2度と出題されません。それは模試だけではなく、過去問でも同じことが言えます。ただ補習補習、居残り居残り、課題課題で、問題がスラスラ解けて成績がメキメキ上がるのであれば集団授業は必要なく、個別指導塾が大多数の業界になっているはずです。しかし現状はそんなことはありません。しっかりと集団と個別でお互いに持ちつ持たれつの関係で存続しています。つまり、数字だけを頼りに生徒の怠惰を理由にしてこちら側から手を差し伸べる方法は、こちら側の満足感を満たすだけであり、決して長期的な視点に立って物事を見ているとは言い難いと思います。

 

個別対応というと、生徒・保護者側からすると特別感とも捉えることが出来る。確かに、ある生徒一人のために時間を作って丁寧に教えてくれるのだから、これを使わない手はないと考える。その後、「先生に聞いたら分かった。」という声が保護者に届き、講師は信頼を勝ち取るかもしれません。しかし、ちょっと待ってください。そもそもなぜ質問してきたのでしょうか?なぜ自力で解決できなかったのでしょうか?手元には解説もあるのにもかかわらず。これが個別対応の大きな落とし穴です。個別対応を繰り返していると、生徒は自分で考え、悩み、解決するというプロセスを飛び越えて解答にたどり着きます。そのプロセスこそ模試や入試に必要な力だというのにです。講師は手を貸していると考えがちですが、実は甘い蜜を吸わしているだけだったりします。なんとも残念な光景です。

 

さて、前置きが長くなってしまいました。本題に移りましょう。

 

いきなりですが、「何を教えるか」の究極の目標というのは、生徒からの質問を限りなくゼロに抑え、目の前にある課題を自力で解決できる能力を身に着けさせることです。しかし、これが意外と難しいのです。授業には時間的な制約以外にも、学習範囲の制約が付随します。つまり、時間内に指定された範囲の学習を終えなければなりません。なので多くの講師は制限時間内にすべての問題を解説しようと努力します。結果的に一つの物事を吟味することなくさらっと授業が終わってしまうことがよくあります。しかしこれではただテキストにある問題を解いただけです。その後に残るものと言えば、解答用紙に残された豪快な〇か無残な×、もしくは講師が模範解答として書いた記述が雑に青や赤ぺんで書きなぐられているだけの、いわばゴミです。これで成績が上がるはずがありません。ましてや学力向上という大きな目標なんて夢のまた夢です。しかし、このような授業を行っている講師がいるということも事実です。実際にそのような場面に何度も出くわしたことがあります。

 

では、このような事態から脱却するためにいったい何をすればよいのか。 これを考えなければなりません。 講師は往々にしてすべてを教えたがります。 気持ちは分かります。 僕もそうだったからです。 しかし欲張ってはいけません。 物事には限界があります。 解決策として挙げられることの中に、扱う問題を絞るということが挙げられます。 すべての問題を網羅しようとする結果、時間が足りなくなるのであれば、扱う問題を最小限に抑えることによって時間的な余裕を作ることができるはずです。 ここで重要になってくるのはどのような問題を削るかということです。 ランダムに扱いずらく、解説しずらい問題を省いてしまうことは絶対にあってはなりません。 どのような理論に沿って問題を削るのがベターなのか。 考えていきましょう。

 

ひとつの文章には様々な設問が大体1~10問程度あります。 まず、その中から本日のメインディッシュを選びます。 記述の日もあれば、選択問題、抜き出し問題でもいいでしょう。 その次に、多くの問題に一貫して共通の解法で解ける問題をピックアップします。 そして、余った問題を吟味し、付け加えたいものがあれば何気なく忍ばせておきます。 これに関しては扱わなくても心配する必要はありません。 またいつか同じような問題が出てきて、メインディッシュとなる日がやってくるからです。 このようにして問題を取捨選択すると、授業内で解説しなければならないものが大体3分の2程度まで減らすことが出来ます。 残りの3分の1に関しては、あとで解説をサラッと読むだけで理解できるものだと尚良しという感じです。

 

これで準備が整いました。 時間的な制約を乗り越え、学習範囲の壁も突破できました。 あとは授業をしさえすれば任務完了という感じがしますが、折角ですからもう少し深く考えてみましょう。 問題の選別が終わったとして、それらを以前と同じようにさらっと解説してしまっては本末転倒です。 ここで重要になってくるのが「何を教えるのか」です。 ついに来ました。 お待たせしました。

 

結論から言うと、授業で生徒に教える最も大切なことは「正解を導くための思考のプロセス」です。 つまり、各問題ごとにアプローチをかけていくのではなく、国語における文章読解という大きなくくりにおいても、ほとんど全てに通用する考え方を教えます。 これを教えることによって、生徒はどんな文章でも内容に関係なく解くことが出来ます。 この思考のプロセスこそが授業で教える内容です。(ただし、語彙力による差は埋められませんので、そこは愚直に知識を増やしていかなければなりませんが。)

 

ある講師が生徒に対してあたかも自分はすべてを知っていてそれを君たちに教えてあげるという圧倒的な上から目線で授業を進めているとします。さらにその内容は答えありきの逆算方式です。つまり、答えから逆算して文章に線を引き、問題文と合致させるというやり方です。もちろん講師は答えを知っているわけですから、生徒の間違いを確認した後に、本文を指さしながら、ここに書いてあるじゃんと言わんばかりに本文に線を引くよう生徒に指示を出します。この講師がやろうとしていることは、答えは文章に書いてあるからしっかり文章を読めということを生徒に伝えることです。しかし生徒からしてみれば、その答えの探し方が分からないんだということなのではないでしょうか。実際、このような授業スタイルが蔓延している気もします。

 

「思考のプロセス」を生徒に教える目的は、講師と生徒間の考え方のギャップを無くし、共通の方法で文章が読めるようになることです。そうすれば、講師は解説が楽になり、生徒は講師の言っている内容が理解できるはずです。同じ考え方なのですから。あとはそれに従って解説をしていけば、その日の授業は成功です。お疲れさまでしたとなるわけです。

 

長くなってしまったので今回も途中で終わらせていただきます。続きは次回ということにしておきましょう。次回は「思考のプロセス」の中身を見ていきたいと思います。

それではまた。