「どのように教えるか」を考える

前回までは授業の内容、つまり「何を教えるか」をつらつらと書かせていただきましたが、今回はその様子を書いていこうと思います。ただの板書では伝えることが出来ない僕からのメッセージをどのように伝えて頭の中に入れるのかということをお伝えします。

 

学校や塾では、授業にはノートを使って目の前にあるホワイトボードか黒板に書かれた板書をノートに写すのが当たり前ですが、少し前から疑問に思っていたことがあります。それは、ノートをとってもそれをいつ、どれくらいの頻度で見返しているのかということです。算数や理科、社会なら暗記事項、需要単語、物事のつながりという観点からノートにまとめるということが効果的だという意見はとてもよく分かります。僕も社会の授業をするときは板書の綺麗さ、情報の正確さを意識しています。

 

国語という科目で板書をすることの意味は何でしょうか。そもそも板書は後でノートを見返したときに、その時に学習した内容がある程度理解できるように作らなければなりません。これは複雑な内容なら効果はあります。テキストの内容が複雑な時はノートが役に立ちます。しかし、国語はどうでしょう。国語は文章の読解がメインです。それなのにいちいちノートに書いて、それを見返して、問題を解く。作業工程が多い気がします。もう少しシンプルかつ大胆に改革をしなければと思いました。

 

ノートをとる意味ですが、生徒の目線で考えてみると先生にノートをとれと言われたから一応言うとおりにしています。という考え方の方が多いと思います。実際僕もそうでした。ノートに書いた内容は教科書にも書いてあるのだからなんでわざわざ二度手間のようなことをしなければならないのかというある種の不満なようなものを抱いていたのも事実です。さらにノートをとることによって、それを見ればいつでも知識の確認ができるという錯覚を起こしがちです。忘れてもまた見ればいいやということです。そうなってしまうともう手遅れです。ノートは机の隅に追いやられ、しばらくの間存在を忘れ去られてしまいます。なんともかわいそうな運命です。

 

もし国語の授業でノートをとるなら、日付、テキスト名、単元名、文章のジャンル、作者、タイトル、文章内容、問題の内容、回答根拠、解答例、、、などなどと色々書かなければなりません。しかも大人と違って子供は各スピードが遅いというのが通常です。なので長々と教えたいことを書きなぐったとしても時間がかかりすぎてしまい、結局終わりきらないうちに授業が終了してしまうのがオチです。これでは講師としても、もちろん生徒としても不完全燃焼です。なので板書はなるべく少なくて、かつ明確にする必要があります。しかし、国語の授業を1年やって思ったことがあります。毎回の授業で扱う文章は違うけれど、板書している内容は同じ気がするということです。

 

そこで去年1年間の授業で扱った文章と、それの板書を思い出してみました。やっぱり文章ごとにばらばらの知識ではなくて、一貫するものがほとんどでした。これでまず教える内容が明確になりました。つまり「思考のプロセス」です。詳しくは前回の記事をご覧ください。しかし問題はどのようにしたらそれをしっかりと生徒が覚えて、使えるようになるかでした。板書だとそれっきりになる。かといってプリントにして配っても効果は同じ。もしくはカバンの中でくっしゃくしゃになって最後にはゴミになってしまう。結論が出るまでに1週間かかり、ようやく答えがでました。それは、板書はするが、ノートはいらない。目で見て、声に出して、頭に入れる。これを繰り返すというこの2つです。結果、これは今のところ成功しています。新小6の授業が始まって早1か月半ですが、僕のクラスの生徒はもう何も見なくても、「思考のプロセス」を言うことが出来ます。

 

正直な話、「思考のプロセス」という名前に何の意味もありません。何がしたかったのかというと、無意識の意識化で、なんとなくその場その場でやっていた文章読解のやり方に何かしらの意味を持たせながら解いてほしいという願いから生まれた言葉です。名前のないものを意識することは大変難しいです。人はものに名前を与えてそれを認識します。それをここでも取り入れてみました。たとえば、よく読めば答えが分かるという解き方、内容を理解しながら読めば理解できるという解き方、様々ありますが、これをどうやって覚えさせるのか。文字で書くには抽象的すぎるし、言葉で説明するにもふんわりしすぎている。これでは伝えたいことも伝わりません。つまり、物事は、それが非物質的なものでさえ、名前があって初めて認識されるものであり、そうすることによってようやく自分のものにすることが出来ます。

 

前にもありましたが、僕の授業では「思考のプロセス」という解き方を見て、声に出して、頭に入れるというやり方を取り入れています。しかしこれは繰り返すことが何よりも大切です。一度きりでは何の意味もありません。何回も、飽きるほど繰り返します。生徒も講師もいい加減勘弁してくれというくらいまで繰り返します。すると、自然と頭の中にその言葉が残っていきます。つまり、記憶の一部として個人個人の中に存在するようになります。何がしたいかというと、生徒の頭の中にある情報、ここでは「思考のプロセス」です、を僕(講師)と共有できているという認識を感じてほしかったのです。同じことを考えているのなら話は早いです。それに即して文章を読み、問題を解けばいいだけですから。

 

記憶というのは単純に覚えているということだけではありません。簡単な話が車を運転するときです。車を運転する人ならわかると思いますが、免許を取ってしばらくのうちはいろいろと考えながら運転するものです。いろいろと注意しながら、様々なことに意識を集中させないと事故を起こしてしまうかもしれません。ですが、数か月も経つと、特に何も考えなくても車を運転できるようになります。それでも交通ルールは守るし、事故を起こさないように注意しているはずです。それでも数か月前とは比べ物にならないくらいスムーズに運転ができます。記憶というのは蓄積によって更新させていきます。そしてその頻度が高ければ高いほど定着していきます。そいて習慣となり身についていくものです。どんな文章、問題でも記憶を辿れば、もしくは無意識の中に解答を導くヒントがあるのなら、これを利用しない手はないと思います。学習とはそういうものなのではないでしょうか。

 

これは国語という科目だからこそできるということもありますが、細かく分析していけば、どんな科目でもどこかしらに取り入れることが出来るのかもしれません。ノートをとることを悪と言っているわけではありません。しかし、それに頼りっ切りというのもどうかと思います。いかに効率的に授業を進めていくか、いかに工夫して教えるか、いかに最大限の効果が期待できるやり方を模索していくか。ただマニュアルに沿って授業をするのではおもしろくないし、楽しくないでしょう。だからこそ自分のやり方、つまり自己流というものを見つけることをお勧めします。そして自己流には2つあります。ひとつは、画期的でより効率的な新しい方法を受け入れることが出来ず、他者からの意見を聞き入れることに抵抗感があり、今までの習慣から脱せず現状に甘んじてしまっている自己流。もう一つは長時間考え抜いた結果ようやく導き出した答えと他者からの意見を聞き入れながら世の中を渡り歩いていくことを武器にした自己流。

あなたはどちらでしょうか。ではまた。