「どのように教えるか」を考える

前回までは授業の内容、つまり「何を教えるか」をつらつらと書かせていただきましたが、今回はその様子を書いていこうと思います。ただの板書では伝えることが出来ない僕からのメッセージをどのように伝えて頭の中に入れるのかということをお伝えします。

 

学校や塾では、授業にはノートを使って目の前にあるホワイトボードか黒板に書かれた板書をノートに写すのが当たり前ですが、少し前から疑問に思っていたことがあります。それは、ノートをとってもそれをいつ、どれくらいの頻度で見返しているのかということです。算数や理科、社会なら暗記事項、需要単語、物事のつながりという観点からノートにまとめるということが効果的だという意見はとてもよく分かります。僕も社会の授業をするときは板書の綺麗さ、情報の正確さを意識しています。

 

国語という科目で板書をすることの意味は何でしょうか。そもそも板書は後でノートを見返したときに、その時に学習した内容がある程度理解できるように作らなければなりません。これは複雑な内容なら効果はあります。テキストの内容が複雑な時はノートが役に立ちます。しかし、国語はどうでしょう。国語は文章の読解がメインです。それなのにいちいちノートに書いて、それを見返して、問題を解く。作業工程が多い気がします。もう少しシンプルかつ大胆に改革をしなければと思いました。

 

ノートをとる意味ですが、生徒の目線で考えてみると先生にノートをとれと言われたから一応言うとおりにしています。という考え方の方が多いと思います。実際僕もそうでした。ノートに書いた内容は教科書にも書いてあるのだからなんでわざわざ二度手間のようなことをしなければならないのかというある種の不満なようなものを抱いていたのも事実です。さらにノートをとることによって、それを見ればいつでも知識の確認ができるという錯覚を起こしがちです。忘れてもまた見ればいいやということです。そうなってしまうともう手遅れです。ノートは机の隅に追いやられ、しばらくの間存在を忘れ去られてしまいます。なんともかわいそうな運命です。

 

もし国語の授業でノートをとるなら、日付、テキスト名、単元名、文章のジャンル、作者、タイトル、文章内容、問題の内容、回答根拠、解答例、、、などなどと色々書かなければなりません。しかも大人と違って子供は各スピードが遅いというのが通常です。なので長々と教えたいことを書きなぐったとしても時間がかかりすぎてしまい、結局終わりきらないうちに授業が終了してしまうのがオチです。これでは講師としても、もちろん生徒としても不完全燃焼です。なので板書はなるべく少なくて、かつ明確にする必要があります。しかし、国語の授業を1年やって思ったことがあります。毎回の授業で扱う文章は違うけれど、板書している内容は同じ気がするということです。

 

そこで去年1年間の授業で扱った文章と、それの板書を思い出してみました。やっぱり文章ごとにばらばらの知識ではなくて、一貫するものがほとんどでした。これでまず教える内容が明確になりました。つまり「思考のプロセス」です。詳しくは前回の記事をご覧ください。しかし問題はどのようにしたらそれをしっかりと生徒が覚えて、使えるようになるかでした。板書だとそれっきりになる。かといってプリントにして配っても効果は同じ。もしくはカバンの中でくっしゃくしゃになって最後にはゴミになってしまう。結論が出るまでに1週間かかり、ようやく答えがでました。それは、板書はするが、ノートはいらない。目で見て、声に出して、頭に入れる。これを繰り返すというこの2つです。結果、これは今のところ成功しています。新小6の授業が始まって早1か月半ですが、僕のクラスの生徒はもう何も見なくても、「思考のプロセス」を言うことが出来ます。

 

正直な話、「思考のプロセス」という名前に何の意味もありません。何がしたかったのかというと、無意識の意識化で、なんとなくその場その場でやっていた文章読解のやり方に何かしらの意味を持たせながら解いてほしいという願いから生まれた言葉です。名前のないものを意識することは大変難しいです。人はものに名前を与えてそれを認識します。それをここでも取り入れてみました。たとえば、よく読めば答えが分かるという解き方、内容を理解しながら読めば理解できるという解き方、様々ありますが、これをどうやって覚えさせるのか。文字で書くには抽象的すぎるし、言葉で説明するにもふんわりしすぎている。これでは伝えたいことも伝わりません。つまり、物事は、それが非物質的なものでさえ、名前があって初めて認識されるものであり、そうすることによってようやく自分のものにすることが出来ます。

 

前にもありましたが、僕の授業では「思考のプロセス」という解き方を見て、声に出して、頭に入れるというやり方を取り入れています。しかしこれは繰り返すことが何よりも大切です。一度きりでは何の意味もありません。何回も、飽きるほど繰り返します。生徒も講師もいい加減勘弁してくれというくらいまで繰り返します。すると、自然と頭の中にその言葉が残っていきます。つまり、記憶の一部として個人個人の中に存在するようになります。何がしたいかというと、生徒の頭の中にある情報、ここでは「思考のプロセス」です、を僕(講師)と共有できているという認識を感じてほしかったのです。同じことを考えているのなら話は早いです。それに即して文章を読み、問題を解けばいいだけですから。

 

記憶というのは単純に覚えているということだけではありません。簡単な話が車を運転するときです。車を運転する人ならわかると思いますが、免許を取ってしばらくのうちはいろいろと考えながら運転するものです。いろいろと注意しながら、様々なことに意識を集中させないと事故を起こしてしまうかもしれません。ですが、数か月も経つと、特に何も考えなくても車を運転できるようになります。それでも交通ルールは守るし、事故を起こさないように注意しているはずです。それでも数か月前とは比べ物にならないくらいスムーズに運転ができます。記憶というのは蓄積によって更新させていきます。そしてその頻度が高ければ高いほど定着していきます。そいて習慣となり身についていくものです。どんな文章、問題でも記憶を辿れば、もしくは無意識の中に解答を導くヒントがあるのなら、これを利用しない手はないと思います。学習とはそういうものなのではないでしょうか。

 

これは国語という科目だからこそできるということもありますが、細かく分析していけば、どんな科目でもどこかしらに取り入れることが出来るのかもしれません。ノートをとることを悪と言っているわけではありません。しかし、それに頼りっ切りというのもどうかと思います。いかに効率的に授業を進めていくか、いかに工夫して教えるか、いかに最大限の効果が期待できるやり方を模索していくか。ただマニュアルに沿って授業をするのではおもしろくないし、楽しくないでしょう。だからこそ自分のやり方、つまり自己流というものを見つけることをお勧めします。そして自己流には2つあります。ひとつは、画期的でより効率的な新しい方法を受け入れることが出来ず、他者からの意見を聞き入れることに抵抗感があり、今までの習慣から脱せず現状に甘んじてしまっている自己流。もう一つは長時間考え抜いた結果ようやく導き出した答えと他者からの意見を聞き入れながら世の中を渡り歩いていくことを武器にした自己流。

あなたはどちらでしょうか。ではまた。

「何を教えるか」を考えるーその2

前回の記事では「何を教えるか」のアウトラインをご紹介しました。詳しくはしたのリンクからご確認いただけます。

satoke1996.hatenablog.com

 

 今回は「何を教えるか」の後編として、前回の続きでもある国語の授業における「思考のプロセス」についてより深く見ていこうと思います。

 

ここで一言付け加えておきたいことがあります。それは、この記事を書いている理由にもなるのですが、僕は2021年度をもちまして塾講師という仕事から身を引くつもりです。そして、今まで培ったものを何かしらの形で残したいという思いからこのブログをはじめました。いつの日かこれが日の目を見ることが出来ることを願っています。

 

では、本題に入りましょう。「思考のプロセス」とはいったい何なのか。

 

授業で生徒に教える最も大切なことは「正解を導くための思考のプロセス」でした。 各問題ごとにアプローチをかけていくのではなく、国語における文章読解という大きなくくりにおいても、ほとんど全ての文章読解に通用する考え方を教えることが重要です。しかし、多くは目の前の問題を解説することに必死になり、さらっとやってハイ終了。さらにはその解説も解答ありきの逆算方式。これでは生徒の成績は伸びません。なぜならこの手法はつい先ほど解いた問題のみに当てはまるものであり、今後出てくるであろう未知の文章における設問には通用しないからです。もっと効果的な、効率的な、実用的な手法が必要です。しかもそれは誰が教えても遜色がないくらい完成されてなければ、クラスまたは講師によって授業の質にばらつきが出てしまいます。そこで僕が1年間授業なをしていく中で生み出したものが「思考のプロセス」です。

 

僕の授業(国語・英語・社会)の特徴として挙げられることは、常に頭を使い、常に考えることです。当たり前じゃないか、たいそうなことを言うと思ったらそんなもんか!と思うかもしれませんが、少々お待ちください。一般に”頭を使う”といっても範囲が広すぎるので、塾という限られた環境での意味を考えていきます。塾では毎日のように授業が行われています。塾の授業には”発問”というものがあります。これは、講師が質問して生徒が答えるという一連の流れを簡単に言い表したものなのですが、研修などでは「生徒が答えやすい質問をしてください。答えられたら褒めてあげてください。それがやる気につながります。」というように説明されます。答えやすい質問とはつまり、答えるべきものがすぐに分かる、もしくはテキストを見たら分かるもの、ついさっき学習した内容などです。なので、覚えていたら褒める。忘れていたらなんでだよーとなるわけです。いやいや、本当にそれでいいのでしょうか。これは本当の意味での”頭を使う”なのでしょうか。

 

僕の授業において、生徒に質問するときは多くの場合答えがない質問を投げかけます。なぜかというと、答えがすぐに分かってしまうのはつまらないという個人的な考えがあるのですが、それよりもしっかりと考えてほしいという願いの方が強いです。最近の授業では言葉の意味をしっかり考えるようにしているので、それを一緒に考えてみたり、様々な具体例を出しながら理解を深めていったりしています。こうすると生徒は単純なQ&Aではなくなり、頭にも残ります。これを根気強く続けていくと語彙力が上がっていき、難解な文章でも自力で文脈から意味を推察することができるようになります。このように、答えのない質問をすることも頭を使うという意味では重要なステップになると思います。集中力も鍛えることが出来るのでお勧めです。

 

しかしながら、発問だけをしていても話は前に進むことはありません。しっかりと授業の中身が伴っていない限り成績はおろか学力も上がることはありません。では、いったい何を教えているのか。それは先ほど書きました、「正解を導くための思考のプロセス」です。

 

僕の考えではすべての問題(ここでは国語の文章問題)には共通点があり、それを理解することでどんな文章にも的確にアプローチをかけられるものだと思っています。つまり、どんな問題が出題されているにせよ、考え方さえ理解していれば、それがたとえ難解な文章でも解くことが出来るということです。

 

問題の種類として挙げられるのは、空欄補充・下線部説明(記述を含む)・文章内容把握の3つだと思います。最後の文章内容把握問題に関して、これは総合的な読解力が必要になります。説明的文章の場合は大体が最後の段落にまとめられているのでそこを読めば答えが出てくる確率が高いのは事実ですが、そんな安直なことはやりたくありませんし、生徒にも教えたくはありません。ここでは空欄補充問題と下線部説明問題についてお話ししたいと思います。記述問題に関してはまた後日お話ししようかと思います。

 

まず空欄補充問題ですが、やることはいたって簡単です。それは、空欄の前後の文章を読み、その関係性を読み解くことです。簡単なことのように思えるかもしれませんが、これがなかなか難しいのです。なぜかというと、普段からそのようなことなんて考えていないからです。つまり、無意識のうちに文脈を理解、解釈して話を進めているか聞いているかのどちらかだからです。急に意識して読むことなんてできません。準備の期間が必要です。準備の期間というのは読解力を養う期間と同じと考えても差し支えはありません。読解力というもの文章の意味を理解し、段落ごと、または話題ごとに関係性を整理していくことに他ならないので、これを身に着けることが出来ればもうこっちのもんです。しかし、習得には時間がかかります。授業内で出来ることにも限りがあります。定着までに数か月かかってしまいます。しかし、諦めることなく、愚直に、忍耐強く続けていくうちに徐々に読み解けるようになります。それは意識しているからこそです。意識して読むこと以外に読解力を上げる方法はありません。授業では意識して読むことの大切さ、そのやり方、継続方法、定着方法などを伝えます。そうすることで僕の手の届かないところでもしっかりと読解力を向上するための読み方をしてくれるはずだということです。空欄補充の攻略こそ読解力の向上が必要不可欠なのです。

 

次に、下線部説明問題ですが、これに関しては独自の方法で回答を導きます。それは、よく読めばわかる!という、なんだかふんわりした、漠然とした解き方というよりはむしろシステマチックに解く方法と言えます。読解力の向上を目標としているのにシステマチックに解くことはどうなのかと思うかもしれませんが、これは講師の頭の中、つまりどのように答えを文章中から探しているのかという「思考のプロセス」を生徒に分かりやすく、かつ明確に伝えるために必要なことです。内容としては、下線部を見つけたら、まずは1文をチェックすること。下線部は多くの場合、文章の途中に引かれています。重要な語句をうまく避けて下線部だけに意識を集中させようという問題作成者の意図を感じます。なのでしっかり1文読んで、情報を漏れなく集めます。次に、その中に含まれている指示語の内容を確認すること。指示語があるということは前の内容を踏まえたうえで次の文章に進んでいるということです。そこを見落としてしまうと全体像が見えてきません。なので、下線部だけでなく、前の内容も視野に入れる必要があります。最後に、問題文や下線部を含む一文に同じ言葉が使われている部分を本文中から探すというものです。文章中や問題文中に隠れているので忘れないようにすることが問題です。解決策としては繰り返し問題を見返すということになりますが、これはまた別のお話。簡単に書くと次のようになります。

・1文チェック

・指示語の内容

・同じ言葉・フレーズ

これを使って文章を読み進めていくと意外と簡単に答えを見つけることが出来ます。

 

以上の2つをメインに教えています。しかし、これらは実は文章読解問題の3つ目のプロセスです。意外と忘れがちですが文章のテーマや内容、取り扱っている問題などを読者に分かりやすく、かつインパクトのある表現で伝えてくれている部分があります。それは「タイトル」です。これを見逃していると文章のテーマが掴みにくくなってしまいます。なので僕の授業では必ず初めにタイトルを確認します。次に問題の分析です。問題を良く分析することによって、本文を読む前に内容を大まかに把握できます。何について問われているのか。主語は何、誰なのか。気持ちなのか説明なのか、それとも理由なのか原因なのか。などといったことが分かれば初見の本文でもまるで映画の予告を見た後に映画を見るような感覚で読むことが出来ます。問題分析はこの後に読む文章のヒントとなる要素が盛りだくさんです。それを見逃さないようにしなければなりません。そのためにはどこが重要な要素なのかを的確に判断することが出来る目を養う必要がありますが、それはまた後程ご説明します。ここまで終わったら本文にいきましょう。そして先ほど書きました、「思考のプロセス」を併用していきます。まとめるとこんな感じになります。

1タイトル確認

2問題分析・・・何について問われているのかを確認する

3本文・・・1文チェック、指示語の内容、同じ言葉・フレーズの確認

このような一連の流れを習得してようやく問題を解く土台が完成します。

 

文章を無意識に読むという習慣から、問題を念頭に置き、意識して読むということを継続的に続けていくという習慣に移行することで初めて正答率を上げていく準備が整うと思います。過去の習慣を手放すことはだいぶ勇気がいることですが、その必要性を丁寧に説明することによって今までの解法がいかに非効率的であったかを認識してもらい、新しい解法を身に着けていく下地を整えていきます。「思考のプロセス」とはつまり問題を解くことにおいて必要不可欠な要素なのです。

 

僕の授業では無意識に読むことを悪と捉えています。常に意識し続けることによってそれが習慣となり、いずれは生徒個々人の脳内に潜在的に「思考のプロセス」が存在し、いつでも取り出せるようになることを目標としています。宿題や模試や入試は結局は一人でやるものです。そんな時に使い物にならない知識や知恵は邪魔なだけです。これさえあれば大丈夫と思えるような絶対的に信頼できるものを持ち合わせることが大切だと思います。

 

今まで紹介してきた「思考のプロセス」を頭の中に定着させるためには板書だけで終わらせてしまうことのないようにする工夫が必要です。一見簡単なように見えますが、これを文章読解中に意識し続けながら文章を読み、問題を解くことは意外と難しく、すぐにできるようにはなりません。次回は「どのように教えていくことが最も効果があるのか」ということに焦点を当ててみようと思います。

「何を教えるか」を考えるーその1

先日のブログでは授業に入る前の下準備的な側面から、ルールを主にお伝えしました。詳しい内容は下のリンクから記事が見れますので、一応張り付けておきます。

satoke1996.hatenablog.com

 

さて、今回からは授業の様子や内容を詳しく書いていこうと思います。

序盤は担当が変わってそわそわしていたクラスが、授業の終盤になると何かに吸い込まれるような真剣な眼差しをこちらに向けていました。そこにもしっかりとした理論があります。僕なりの教育哲学と言ってもいいでしょう。今回はそれを紹介したいと思います。

 

国語という科目に限らず全ての講師に共通していることがあります。そう願いたいです。それは、生徒の成績を上げること。第一志望校に合格させてあげること。この2つだと思います。志が高いことは大変すばらしいことで、その気持ちを持ち続けてほしいことには変わりはありません。しかし、多くの講師はその目標だけにフォーカスしている節があるのではないでしょうか。個別対応を例にとって考えてみましょう。

 

入試は年に1度しかありません。しかし、成績や学力を測るものに関しては、1年で数々の模擬試験があり、その一つ一つで得点と偏差値が提示されます。そして多くの講師はその数字だけを見て生徒と面談をしたり、補習をしたりします。確かに個別に対応することで講師側の熱意は伝わるかもしれません。しかし、果たしてその熱意は持続するでしょうか。物事の本質を見抜き、欠点を改善することができるでしょうか。いや、効果が出るのは短期間で、だいたい週間後にはまた忘れていることが多いと思います。冷静に考えれば分かることですが、同じ問題は2度と出題されません。それは模試だけではなく、過去問でも同じことが言えます。ただ補習補習、居残り居残り、課題課題で、問題がスラスラ解けて成績がメキメキ上がるのであれば集団授業は必要なく、個別指導塾が大多数の業界になっているはずです。しかし現状はそんなことはありません。しっかりと集団と個別でお互いに持ちつ持たれつの関係で存続しています。つまり、数字だけを頼りに生徒の怠惰を理由にしてこちら側から手を差し伸べる方法は、こちら側の満足感を満たすだけであり、決して長期的な視点に立って物事を見ているとは言い難いと思います。

 

個別対応というと、生徒・保護者側からすると特別感とも捉えることが出来る。確かに、ある生徒一人のために時間を作って丁寧に教えてくれるのだから、これを使わない手はないと考える。その後、「先生に聞いたら分かった。」という声が保護者に届き、講師は信頼を勝ち取るかもしれません。しかし、ちょっと待ってください。そもそもなぜ質問してきたのでしょうか?なぜ自力で解決できなかったのでしょうか?手元には解説もあるのにもかかわらず。これが個別対応の大きな落とし穴です。個別対応を繰り返していると、生徒は自分で考え、悩み、解決するというプロセスを飛び越えて解答にたどり着きます。そのプロセスこそ模試や入試に必要な力だというのにです。講師は手を貸していると考えがちですが、実は甘い蜜を吸わしているだけだったりします。なんとも残念な光景です。

 

さて、前置きが長くなってしまいました。本題に移りましょう。

 

いきなりですが、「何を教えるか」の究極の目標というのは、生徒からの質問を限りなくゼロに抑え、目の前にある課題を自力で解決できる能力を身に着けさせることです。しかし、これが意外と難しいのです。授業には時間的な制約以外にも、学習範囲の制約が付随します。つまり、時間内に指定された範囲の学習を終えなければなりません。なので多くの講師は制限時間内にすべての問題を解説しようと努力します。結果的に一つの物事を吟味することなくさらっと授業が終わってしまうことがよくあります。しかしこれではただテキストにある問題を解いただけです。その後に残るものと言えば、解答用紙に残された豪快な〇か無残な×、もしくは講師が模範解答として書いた記述が雑に青や赤ぺんで書きなぐられているだけの、いわばゴミです。これで成績が上がるはずがありません。ましてや学力向上という大きな目標なんて夢のまた夢です。しかし、このような授業を行っている講師がいるということも事実です。実際にそのような場面に何度も出くわしたことがあります。

 

では、このような事態から脱却するためにいったい何をすればよいのか。 これを考えなければなりません。 講師は往々にしてすべてを教えたがります。 気持ちは分かります。 僕もそうだったからです。 しかし欲張ってはいけません。 物事には限界があります。 解決策として挙げられることの中に、扱う問題を絞るということが挙げられます。 すべての問題を網羅しようとする結果、時間が足りなくなるのであれば、扱う問題を最小限に抑えることによって時間的な余裕を作ることができるはずです。 ここで重要になってくるのはどのような問題を削るかということです。 ランダムに扱いずらく、解説しずらい問題を省いてしまうことは絶対にあってはなりません。 どのような理論に沿って問題を削るのがベターなのか。 考えていきましょう。

 

ひとつの文章には様々な設問が大体1~10問程度あります。 まず、その中から本日のメインディッシュを選びます。 記述の日もあれば、選択問題、抜き出し問題でもいいでしょう。 その次に、多くの問題に一貫して共通の解法で解ける問題をピックアップします。 そして、余った問題を吟味し、付け加えたいものがあれば何気なく忍ばせておきます。 これに関しては扱わなくても心配する必要はありません。 またいつか同じような問題が出てきて、メインディッシュとなる日がやってくるからです。 このようにして問題を取捨選択すると、授業内で解説しなければならないものが大体3分の2程度まで減らすことが出来ます。 残りの3分の1に関しては、あとで解説をサラッと読むだけで理解できるものだと尚良しという感じです。

 

これで準備が整いました。 時間的な制約を乗り越え、学習範囲の壁も突破できました。 あとは授業をしさえすれば任務完了という感じがしますが、折角ですからもう少し深く考えてみましょう。 問題の選別が終わったとして、それらを以前と同じようにさらっと解説してしまっては本末転倒です。 ここで重要になってくるのが「何を教えるのか」です。 ついに来ました。 お待たせしました。

 

結論から言うと、授業で生徒に教える最も大切なことは「正解を導くための思考のプロセス」です。 つまり、各問題ごとにアプローチをかけていくのではなく、国語における文章読解という大きなくくりにおいても、ほとんど全てに通用する考え方を教えます。 これを教えることによって、生徒はどんな文章でも内容に関係なく解くことが出来ます。 この思考のプロセスこそが授業で教える内容です。(ただし、語彙力による差は埋められませんので、そこは愚直に知識を増やしていかなければなりませんが。)

 

ある講師が生徒に対してあたかも自分はすべてを知っていてそれを君たちに教えてあげるという圧倒的な上から目線で授業を進めているとします。さらにその内容は答えありきの逆算方式です。つまり、答えから逆算して文章に線を引き、問題文と合致させるというやり方です。もちろん講師は答えを知っているわけですから、生徒の間違いを確認した後に、本文を指さしながら、ここに書いてあるじゃんと言わんばかりに本文に線を引くよう生徒に指示を出します。この講師がやろうとしていることは、答えは文章に書いてあるからしっかり文章を読めということを生徒に伝えることです。しかし生徒からしてみれば、その答えの探し方が分からないんだということなのではないでしょうか。実際、このような授業スタイルが蔓延している気もします。

 

「思考のプロセス」を生徒に教える目的は、講師と生徒間の考え方のギャップを無くし、共通の方法で文章が読めるようになることです。そうすれば、講師は解説が楽になり、生徒は講師の言っている内容が理解できるはずです。同じ考え方なのですから。あとはそれに従って解説をしていけば、その日の授業は成功です。お疲れさまでしたとなるわけです。

 

長くなってしまったので今回も途中で終わらせていただきます。続きは次回ということにしておきましょう。次回は「思考のプロセス」の中身を見ていきたいと思います。

それではまた。

学力向上における意識改革の途中経過報告

2月3月は塾業界における学年切り替えの時期だ。小6、中3の受験が終わり、来年に向けて新しいクラスがスタートしていく。全担当が持ち上がりで担当する場合もあれば、心機一転ガラリと変わることもある。しかし、2月3月は流動的な時期でもある。実のところ、正規の担当が定まるのは4月を迎えてからの場合が多い。塾講師の大半が大学生な故、大学が始まるために塾の授業の開始時間に間に合わないなどの問題が発生するので、そこでまた調整が必要になるからだ。生徒からすれば担当講師がコロコロ変わっていい迷惑である。そんな中でも今月から担当している新小6のクラスは維持できている。3月以降も自分が主体となってクラスを運営していくことになる。

 

第1回の初回授業では、授業時間100分間すべてを費やして生徒の意識改革をしました。具体的な内容を簡潔に説明するとこんな感じになります。

 

「学力」とは「読解力」であり、それを向上させるためには「分析」と「精読」が必要不可欠である。現状、それらが欠如しているので「やっている風」で勉強を終わらせてしまっている。結果、成績が上がらないのも無理はない。そこで、ゼロから生徒の学習に対する意識そのものを変えることが最も効果のある方法だと伝えた。最後にこれまでの学習環境を振り返り、僕と生徒との間にある学習に対するギャップを埋めていく作業をして授業はおしまい。

 

細かく話すと長くなるので詳しくは前述の「学習」という記事をご覧ください。

satoke1996.hatenablog.com

 

さて、今日はその後2週間でどれくらい彼らの意識が変わったのかをご報告します。

 

塾は授業だけで完結ではありません。様々な業務の一端を担うのが授業なだけで、それ以外にも成績管理や宿題管理、回診電話、個別面談やカウンセリングなど、挙げるときりが無いが、全ては成績を上げるために行うものであることに変わりはない。その中で比重が重いものに授業がある。一番生徒と接する時間が長いのも授業だ。故に生徒の成績を上げるのに授業というものが重要になる。しかし、だからと言って授業に全神経を注ぎ込み、その他が疎かになってしまわないように注意を払わなければならない。

 

授業において細心の注意を払うべきことは「何を教えるか」であり、「どのように教えるか」は二の次だと考えている。しかし、いつまでも内容だけに拘ることもできない。徐々に慣れていき、この2つを両立させなければならない。つまり、「何をどのように教えるか」ということを考える。しかしここで注意しなければならないことは、講師の独断でWHATからHOWに移行してしまうと、生徒が置き去りになってしまう可能性がある。下位クラスだとなおさらだ。誰一人として無視はできない。そこで、僕はある程度の期間をWHAT、つまり「何を教えるか」にフォーカスして授業を進めることにしました。しかし、まだ授業に入る前にいろいろと決めておかなければならないことがあるのです。

 

さて、先週までの授業を振り返りましょう。

 

まず僕の授業におけるルールを決めました。ノートは不要、持ち物は筆記用具のみ。テキストは任意。これだけです。塾は学校とは違います。なので国語の授業でノートを取り、復習し、その内容が定期テストに出るというようなことはありません。ノートは勉強をやった気にさせてしまう危険性があります。下位クラスの特徴として、普段勉強していなかった分、少しでも手を動かすとやった気になってしまいがちです。だからノートは使いません。生徒全員が、ウソだろ…。という表情を浮かべていました。それもそのはずです。まあ、それが意識改革の始まりですからもうしばらく驚いてもらいます。

 

国語という科目は大きく分けて2つです。文章読解と知識です。説明的文章(説明文・論説文)と文学的文章(物語・小説)を扱う文章読解。また後程書きますが、これらに関して板書はほとんど必要ありません。文法や詩・短歌・俳句における季語や表現技法、文学史、漢字などを扱う知識。これはあくまでも僕の考え方ですが、ノートを使って教えなければならないのはこれらの中で文法くらいだと思います。それ以外は授業の中で、あるいは自主学習の中で自然と覚えていくものだと思います。細かいことを付け加えるなら、ものによって、例えば文学史のややこしいやつなど、は板書が必要かもしれません。しかし、年に1、2回程度しか出てこないのでさほど気にはならないでしょう。しかもそれ専用のプリントまで用意されているので、あとはひたすら覚えるしかありません。ここは頑張りましょう。

 

また、宿題の提出ですが、これまでは強制的に全員提出というのが当たり前でしたが、これをなくしました。生徒歓喜。ただ、今後一切宿題は見ないというわけではありません。どういう事かというと、宿題の提出を指名制に変更しました。授業の冒頭に単元別の確認テストがあるのですが、その点数によって提出者とそれ以外に分けていきます。今のところうまく機能しています。

 

宿題と連携しているのですが、漢字に関してもターゲットを絞ります。毎週確認テストがあります。僕のクラスは毎回ですが。そこで合格基準に満たすことが出来なかった生徒にはペナルティがあります。ペナルティの内容ですが、間違えた漢字を10回ずつ書くというのがスタンダードです。しかし、僕らのクラスが目指しているのは総合的な学力の向上であり、読解力の向上です。ただ同じ漢字を繰り返し書くだけでは何の意味も有りません。文脈を読み取り、そこから漢字を推測する能力を養うことを目的とした、全文書く漢字練習を取り入れました。これで漢字の意味、どのような文脈で使われているかが理解できます。1問につき10回。5問間違えた時点でペナルティが発生するので、この時点ですでに50行です。これを提出してもらいます。実際に経験した生徒から話を聞きました。もう絶対に間違えない自信があります。それに、漢字の意味や使うシチュエーションを理解できました。という答えが返ってきました。そこそこ成功しているのでこれも継続していきましょう。

 

このようにして僕らのクラスはスタートしました。

僕も彼らも常に頭を使うことを意識して授業に取り組んでいます。ノートは使わないので、前のホワイトボードか僕を見ています。こちらとしても彼らの様子がよく分かるので色々と質問したりできます。僕の質問には答えがありません。テキストに書いてある内容を聞いているわけではないからです。考えて発言。そこに規制はありません。どんどん声に出してもらいます。はじめのうちはほとんどお通夜でしたが、慣れていくと自ら色々考えて発言してくれるので、これが思考力を伸ばすスタートラインだと思って今後も続けていきます。

 

さて、授業内容ですが基本的には読解メインです。もちろんノート不要。では、はじめに書いたように何を教えているのかというとですが、答えはとてもシンプルです。しかし、そこにも思考力を養うための仕組みがあります。

次回は「何を教える」のかについて書くことにしましょう。

本日はこれくらいで、それではまた。

パンコントマテ

ついに書きます。お待たせしました。

ご存じの方もいるとは思いますが、僕には週に1度は必ず足を運びたくなるような行きつけのお店があります。その名も「パンコントマテ」。江古田にあるパスタハウスです。

 

江古田駅の北口を出て左手に進むと見えてきます。2階建ての建物で、1階はお蕎麦屋さん、2階がパンコントマテの店舗です。外には看板が数個あり、簡単に見つけることが出来ます。

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パンコントマテ外観

お店の入り口には様々なメニュー表がぶら下げられており、いきなり賑やかです。海外のクラシックな看板やポスターが色々貼ってあります。それを見るだけでも楽しめます。ディズニーのプロップが好きな僕にとってこんなに楽しい階段はここ以外ありません。入ってすぐ左手になぜかは分かりませんが舵があるのでとりあえず回しておきましょう。ヨーソロ。

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2階の入り口へ上る階段。混雑時にはここに行列ができます。

パンコントマテは常にJAZZが流れている非常に個性的な内装をしています。階段と同じく所狭しと海外の雑貨が並んでいます。動物の骨なんかもあり、一つ一つにこだわりを感じることが出来ます。肝心の料理が出てこないのはそれ以外に伝えたいことがたくさんあるからです。もう少しお待ちください。店内BGMがJAZZなだけあってジャズの名盤と言われているようなレコードのジャケットが壁に掛けてあります。写真がないのは行き過ぎて撮るまでもないと感じてしまっているからです。ちなみに僕が一番好きなディスプレイは馬のお尻を並べた絵です。犬も紛れ込んでいます。

 

さて、メニューです。

ランチタイムとディナータイムでメニュー表が異なります。おすすめはランチタイムです。なぜなら、安い、うまい、多いからです。最高です。ありがとうございます。今日はランチに限定してお伝えします。

まず、メインとなるパスタですが、アレグロ(本日のパスタ)とそれ以外に分けられます。アレグロは日によって異なるので、当たりの日とまあまあの日とはずれの日があります。まあそれも楽しみの一つです。その他に、大盛、サラダ、ドリンク、デザートの中から2つ選ぶことが出来ます。そしてお値段800円。わお。例えば、アレグロとホットコーヒー(食前)(お代わり可)とデザート(食後)というように注文します。中には、大盛ダブルという胃袋に喧嘩を売るような注文もできます。デザートの種類は様々で、パンナコッタ、チーズケーキ、ガトーショコラ、アイス等々、これらも日によって異なります。1時過ぎ行くと終了していることがたまにあるのであしからず。

 

メインのパスタにいきましょう。待ってました!

一番のおすすめは「ペペロンチーノ」です!冗談抜きで毎日食べたい。この記事を書いているのは朝なんですけど、もうペペロンチーノの口になってきた。写真をどうぞ。

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パンコン代表ーペペロンチーノ

はい、美味しいです!ありがとうございます!

見てわかる通り麺は結構太いです。なので普通のサイズでもお腹一杯になれます。ありがたい。値段は900円とこれまたいいお値段。しかもドリンク、デザートついて900円。良い!大盛にしても900円。良い!!一度口に運んだらもう止まりません。完食するまで誰にも邪魔されたくないと思うほど熱々のできたての状態で最後まで食べたいという思いが脳を駆け巡ります。これで何度口の中を火傷したことか…。しかし、これは油たっぷりですので胃もたれが心配という方、ご安心ください。フライパン醤油や冷製パスタ、和風パスタまで幅広く取り揃えております。

 

中でもよく食べたのがこのツナおろし納豆です。

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和風王者ーツナおろし納豆

山ですね。ちなみにこれは大盛のサイズです。ツナと大根おろしと納豆がトッピングされたパスタです。これが意外と合います。美味しいです。ぜひ一度ご賞味あれ。

 

いかかでしたでしょうか。江古田一押しパスタハウス パンコントマテ。見かけたことはあるけどまだ行ったことが無い方、勇気を出して一歩踏み出してみましょう。しばらく行っていない方、久しぶりにどうですか。店員さんも親切な方たちで、常連の僕に何かしらのサービスをしてくれます。大抵サラダがサービスされます。ありがとうございます。他にも紹介したいメニューはあるのですが、自分のスマートフォンの中にある写真がこれくらいしかなかったので、もっと写真が増えたらまた別バージョンでお送りしたいと思います。

 

お会計を澄まして来るときに上ってきた階段を下るとき、またポスターに目を奪われがちですが、鹿が最期にお見送りをしてくれます。下には闘牛。不思議な組み合わせ。でもそれがいい。このごちゃごちゃした感じがたまらなく落ち着く。今日行こうかな。

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また来てね

学力

小学生の中学入試が一段落し、いよいよ高校入試が始まった。もうすでに合格をもらった人もいれば今まさに試験を受けている人がいる。今年はコロナの影響で恒例行事の入試応援ができない。入試応援の時は、早朝から学校に行き、受験会場へ向かう生徒たちと握手をしたりする。意外と効果があるらしい。緊張がほぐれるだとか。こちらは凍えそうな手を何とか温めて握手をする。知らない生徒でも積極的に握手を求めてくる者や嫌々やっている者もいる。どちらにしろ頑張ってほしい気持ちは変わらない。少しでも緊張のほぐれになるような手助けができればなと思っている。

 

今年は代わりに動画での激励メッセージをオンラインで配信している。朝家を出る前にみてくださいとのこと。自分以外の講師はホワイトボードの前に立って熱のあるトークをしているなか、自分一人だけ個室で座って落ち着いて話している。後日ある生徒から聞いた話だが、僕の家で撮影しているかと思ったらしい。異端児すぎる。意外とこの動画配信型の激励メッセージも好評だった。3回連続で見たという生徒もいた。早く会場に行けと思った。まあそれでも見てくれるだけありがたい。

 

さて、本題の「学力」ですが、自分が思い至った結論が「学力」は「読解力」だということです。どういうことか詳しく説明していきます。

 

つい先日新しく小学6年生の国語の授業を受け持つことになりました。まったく新しいクラスで、最も下のレベルのクラスです。彼らの多くはかれこれ1年以上塾に通い、勉強してきたにもかかわらずなかなか成績を上げることのできなかった生徒です。彼ら曰、勉強してもなかなか成績が上がらないことを受け入れてしまっている節があります。その原因はそもそも勉強のやり方が間違っていたのか。それとも別の要因があるのか。初めての授業ではその真相を追求するべく彼らとの対話で授業時間の100分間を費やすことになりました。

 

幸いにもこのクラスには塾が嫌いで無理やり行かされているという悲惨な状況の生徒はいませんでした。とりあえず一安心です。そして意外と勉強が好きだという。勉強が好きなら成績は順調に上がっていくと考えるのは早計です。現実はそんなに甘くありません。彼らには共通点があります。それがいつまでも下のクラスでくすぶっている原因だという結論になりました。それは集中力でもなければ、授業態度でもありません。それは根本的な部分、つまり意識です。これが欠如していました。

 

僕がこの小6のクラスを担当する前、彼らはただ国語・算数・理科・社会の問題を解き、解説を受ける。教室が騒がしくなると注意され、問題の解き方以外に教えられる内容がなかったそうです。それで成績が上がるのであれば家で一人でやっても勝手に学力は上がります。ましてや学校に通うだけで誰しもが優秀な成績を収めることが出来ます。塾の授業スタイルが彼らを縛っているといっても良いかもしれません。

 

確かに講師のやり方は千差万別です。さらに一人ひとり授業のスタイル、方針はクラスによって違います。しかし、一番下のクラスとなると話は別です。生徒をとにかく机に向かわせて制御することが求められます。それは塾の仕事なのかと思うかもしれませんが、これが現状です。塾側としては、生徒・保護者に対して「勉強している感覚」を持たせることが大切です。授業の内容は二の次にされている場合が多いです。結果的に問題演習に時間を割き、根本的な解決には至りません。「問題演習→解説」この流れを「勉強」と位置づけしています。これでは単なる作業です。得るものと言えば講師がたまに教える小手先のテクニック。それを教えられてとりあえずやった気持ちになるのが関の山です。

 

こんな状態のクラスを新しく持つことになります。課題は山積みです。

 

このクラスの生徒にアンケートを取ったところ、勉強をしているのになかなか成績が上がらないことについて悩んでいるという生徒が大多数だということが分かりました。予想通りです。彼らにはまだ成績を上げるだけの下地が整っていないのです。それこそが「読解力」です。すべての科目に共通することがあります。それはテキストはすべて文章で書かれていること。当たり前だと思われたかもしれませんが、これが意外にも大きな落とし穴です。なぜなら、慣れ親しんだ日本語で書かれている文章を懇切丁寧に読むというのは時間の無駄だと考える人の方が多いです。実際そうでした。

 

彼らは各科目のテキストの文章、特に国語と社会に関して、本文すら正確に読めていませんでした。問題文なんてものはほぼ流し読みです。そんなことで成績が上がる訳がありません。なぜこのようなことになってしまったのかというと、「読解力」を最も効率よく養える国語の授業に原因がありました。細かい話は一旦置いておいて、国語の授業を疎かにしてしまうと、その後に失うものへの影響が大きいです。国語の成績が他の科目の成績に影響を与えているといっても過言ではありません。

 

では、「読解力」を向上させるために何をすればいいのか。それは、「分析」と「精読」です。この二つに共通していることは頭を使うことです。ただ読むだけではありません。文字情報を頭にインプットすることで脳が活性化することはほとんどありません。考えながら読むことによって脳は動きます。簡単に説明すると、「分析」とは設問分析とも言い、何を問われているのかを分析すること。「精読」とは、一文一文を丁寧に、行間を読みながら、文章に使われている単語の意味をも考えながら読むことです。これらを意識するだけで一つの文章に対する理解度は格段に上がります。今まで無意識のまま文章を読んで、問題を解いてきたことにほとんど価値はないということを伝えました。もしもそれが正攻法なのであればこのクラスに古株は一人もいないはずだからです。実際に小4の時からこの下のクラスでくすぶっている生徒が数名います。これを聞いた生徒の様子はまさに目から鱗でした。まさかこんなに響くとは思いもしませんでしたが。

 

このように記念すべき1回目の授業は、授業ではなく生徒の意識改革から始まりました。まだまだ改革は始まったばかりです。今日2回目の授業があります。今日は前回の続きー「精読」文章の読み方ーをゼロからやっていきます。

 

1年間ともに頑張りましょう。

Bohemian Rhapsody

2月7日にユナイテッドシネマとしまえんBohemian RhapsodyIMAXで鑑賞した。過去に1度見ただけだったので、かれこれ3年ぶりの鑑賞だった。Queenの楽曲を大画面・大音響で視覚と聴覚をフルで刺激されっぱなしの2時間半は家では絶対に体験できない。やっぱり映画館は最高です。特別上映ありがとうございます。

 

この映画はフレディ・マーキュリーの半生を家族と仲間を通して描いている映画なのだが、そこにあるのは喜劇と悲劇だ。フレディ自身の豪快さは映画を見る人をお金持ちの娯楽に連れて行ってくれる。一方で彼が心酔していたパートナーの裏切りはまさしく悲劇そのものだった。人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。チャーリー・チャップリンの言葉がそれを裏付けてくれる。

 

ラストは1985年のライブエイドでのQueenのステージを完全に再現している。Bohemian Rhapsodyから始まり、Radio Ga Ga、Hammer To Fall、Crazy Little Thing Called Love 、We Will Rock You、ラストのWe Are The Champions までの21分間はまさに圧巻の一言。ボーカルの声、観衆の熱狂、見守るパートナーのショットが涙腺を刺激し鳥肌が止まらない。そのままエンディングに行く演出なのだが、最高。日曜日の昼下がりからいい思いをさせてもらった。2月18日まで公開していますので是非。